【佳作】ひいおばあちゃんの記憶 大玉中学校2年 斎藤愛生
ひいおばあちゃんの記憶
大玉中学校2年 斎藤愛生
私のひいおばあちゃんは、戦争を体験しました。ひいおばあちゃんは小学一年生でした。そんな若さで戦争を体験したひいおばあちゃんに、戦争について話を聞きました。
ひいおばあちゃんは、二本松市に住んでいました。空を見上げるとB29という爆撃機が近くを飛んで行きます。機体の「B29」という文字が見えるくらい低い高度で飛んで行くそうです。B29が来ると、みんなで急いで防空壕に入るそうです。ひいおばあちゃんの地域には爆弾は落とされませんでしたがその時戦争の道具などを作っていた本宮市に爆弾が落とされたそうです。
生活もとても苦しかったそうです。都会から親戚の子供たちが疎開してきて、人数が多いのに対して食べ物はほとんどありませんでした。白いお米は少ししかなく、お米が少ししか入ってない、麦ご飯かさつまいもご飯を食べていたそうです。肉や魚は一度も食べられず、いつもお腹がすいていたといいます。ひいおばあちゃんは「白いお米をお腹いっぱい食べたかった」と話していました。その話を聞いて私は、今の自分が何気なく三食しっかり食べられることのありがたさを改めて考えさせられました。
学校に通うのも大変でした。当時のランドセルはダンボールに布を巻いただけのもので使いづらかったそうです。雨にぬれると、すぐに穴があいてしまい中に入っていた教科書などがボロボロになってしまったそうです。そして何より大変なのが冬の登下校です。藁で作られたブーツを履いて雪道を歩いていたので、すぐに中に水が入り、冷たさに耐えきれず泣きながら帰ったこともあったそうです。私はその話を聞いて、戦争はただ爆弾の恐怖だけでなく、子供たちの「学習する権利」や「安心して過ごす権利」までも奪ってしまうものなのだと思いました。
そんな大変な中でも、子供たちは遊びを工夫して楽しんでいたそうです。この時、おもちゃなんて売っていなかったので、友達とめんこをしたりカラカラに干した銀杏をおはじき代わりにして遊んだりしていたそうです。ちょっとした工夫で友達と笑い合える時間を作り、それが心の支えになっていたのだと思います。
戦争が終わってからも、すぐに生活が楽になるわけではありませんでした。食べ物や衣服は不足し、苦しい生活が長く続いたそうです。「戦争が終わってからも、何年も大変なままだった。」とひいおばあちゃんは言っていました。戦争は終わってからも人々を苦しめ続けるものなのだと、その言葉から伝わりました。
私はひいおばあちゃんの話を聞いて、人が平和に生きていくために必要な「人権」について考えました。十分に食べること、安心して眠ること、友達と学び、遊ぶこと。これらはすべて当たり前のことのようですが、戦争によって簡単に奪われてしまいます。そして一度奪われてしまった人権を取り戻すには、とても長い時間と大きな努力が必要になります。だからこそ、戦争を二度と繰り返してはいけないのだと思いました。
今の私はとても恵まれた環境で生活しています。毎日学校に行けば教科書やノート、文房具がそろっていて、給食では栄養のある食事を食べることができます。家に帰れば温かい部屋で過ごし、家族と安心して眠ることができます。これらは決して当たり前ではなく、多くの人が平和を願って努力してきた結果なのだと、ひいおばあちゃんの話を通して気づきました。
戦争を体験した人が少なくなっている今だからこそ、こうした体験を聞き、受け継いでいくことが大切だと思います。ひいおばあちゃんの「ご飯をお腹いっぱい食べたい」という思い、泣きながら通った冬の登校、友達と遊んで笑い合った時間。その一つ一つが、戦争の厳しさを伝える大切な記憶です。私はこの記憶を絶対に忘れず、これからも多くの人にこの作文を通して知ってほしいと思います。
そして、平和な毎日は、決して当たり前にあるものではなく、誰かが勝手に守ってくれるものでもありません。私たち一人一人が、「守りたい」と思い続けなければ、簡単に壊れてしまうものなのです。ひいおばあちゃんの話を聞いて、今の平和はたくさんの人が苦しみながらも必死に守り抜いてきたものだと分かりました。だから私は、この平和を絶対に失いたくありません。これからも戦争を二度と起こさないために、私自身ができることを考え続けます。平和は与えられるものではなく、私たちが守り続けるものなのだと、ひいおばあちゃんの記憶のおかげで気付くことができました。
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