【佳作】今を生きる私達の義務 大玉中学校3年 八巻彩

今を生きる私達の義務
大玉中学校3年 八巻彩

今年は戦後から八十年が経った。現在の日本は、経済が目まぐるしく発展し、とても豊かで恵まれている国に成長した。その中で生きている私は、なんの不自由もなく毎日が幸せな日々を送っている。まるで、八十年前に戦争があったなんて考えられないくらいに。
八月に入るとニュースで「戦後から八十年」という言葉を頻繁に聞くようになった。様々なトピックが取り上げられている中、一つの問題が印象に残った。それは、「戦争経験者の高齢化」だった。現在、戦争を体験した方の平均年齢は八十歳を超えている。戦中、戦後の体験、記憶を直接語れる人がいなくなっているのだ。このことは、戦中の記憶を風化させ、平和の大切さを忘れがちになるという懸念につながる。戦争の記憶が風化することは、再び戦争を繰り返す可能性が高まるという事に繋がる。だからこそ、戦争体験者の減少は、歴史の教訓を次世代に伝える上で大きな課題となっているのだ。

戦後から長い年月が経つにつれ、日本の社会のなかで戦争への関心が薄れていることは確かだ。総務省の人口推計によると、戦後生まれの割合は八十七.九パーセントに達し、約九割が「戦争を知らない世代」になっている。もう私達の世代は、「戦争」は「記憶」ではなく「歴史」になってきているのだ。どうしても恵まれている生活があたり前の私達には戦争のイメージがしづらかった。また、新型コロナウイルス感染症の流行もあったため、戦争について語り合う、学び合う場や機会が減ってしまっている。こんな状況の中、ニュースでは、戦後生まれで戦争の体験はないが戦争経験者の話を継いで次の世代に知ってもらう活動を行っていた。それを聞いて、私にも出来る事なのではないかと思った。実際に原爆が落とされた広島に行ったことがある私には。

小学六年生の冬休みに村の派遣事業で広島へ派遣に行ける機会があった。原爆が落とされた地で戦争の悲惨さや平和の尊さを肌で学び自分にとってより良い研修になるよう村を代表して出発した。
ガイドさんに案内され、原爆ドームに辿り着くと初めて実際に見ることが出来た。あまりにも被爆当時の姿で残っているものだから驚いた。高いビルがそびえ立つ真ん中にポツンと建っている原爆ドーム。それは、とても存在感があり、核兵器の悲惨さを伝えていた。私達と一緒に原爆ドームを見上げていた外国人にも伝わっていたのだろうか。核兵器がもたらす悲惨さを本当に原爆が落とされた事実を原爆ドームから私は受け継いだ。
次に私達は、平和記念公園内碑をめぐり、千羽鶴を奉納した。そこには「原爆の子の像」があった。それは、原爆でなくなったすべての子どもたちをなぐさめに作られた像だ。当時、被爆からかなり時間がたってから白血病などの「原爆症」になってしまう子どもたちが何人もいた。生きたくても生きられなかったのだ。佐々木禎子さんもその中の一人だ。当時私と同じ六年生だった時に白血病だと分かり、病院に入院することになった。ある時、折り鶴を千羽折ると願いがかなうと聞いた禎子さんは病気が治るようにと、鶴を折り続けた。しかしその願いがかなわないまま十月にたった十二歳で亡くなったのだ。禎子さんと折り鶴の話はニュースや本になり、世界中に広まった。だから、原爆の子の像には、平和を願う人々が作ったたくさんの折り鶴が飾られている。私は命の尊さを感じ、こんな思いをして亡くなる子どもは絶対にいてはならないと思った。

最後に私達は、平和記念資料館を見学した。そこに展示されていたのは、被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料だった。展示されているすべてが残酷で目を背けたくなるほど怖かった。足がすくみ気分が悪くなったのを今でも覚えている。そして私は、戦争の恐ろしさを教科書なんかではなく、自分の目で知ることが出来た。
この研修で、戦争によって多くの人権が失われることを深く理解し、二度と悲劇を繰り返さないよう努めていきたいと思った。
戦争経験者が少なくなっている中、次世代に戦争がもたらす悲劇を語り継ぐのは今を生きる私たちの義務だと考える。直接現地に行き肌で感じることが出来た私は、なおさら語り継がなければならないと思った。今あるあたり前の生活を未来でも繋いでいけるように。
戦後八十年が経った今でも世界のどこかでは戦争をしている。領土や資源の争奪や民族や宗教違いなど様々な問題で対立が起きてしまう。一度戦争を経験した者がまた同じ過ちを犯している。戦争をなくすためにも多くの人に戦争がもたらす悲劇を理解してほしい。そのために、私は英語で世界中の人に語り継げるようになりたいと思う。それが今を生きる私達の義務だから。
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