【特選】じいが教えてくれたこと 大玉中学校1年 國分穂乃花
じいが教えてくれたこと
大玉中学校1年 國分穂乃花
「人権とは全ての人々が生命と自由を確保し、それぞれの幸福を追求する権利、あるいは、人間が人間らしく生きる権利で、生まれながらに持つ権利である。」
小学生の頃、人権擁護委員の方に教えてもらったこの言葉に、私は何度はげまされてきただろう。
私は見た目を友達からからかわれていたことがある。きっと面白がって軽い気持ちで言ったことだっただろう。しかし当時の私は、辛くて悲しくて、授業で似ている言葉が出るだけで、「また皆私のことを言っているのではないか」「もう学校に行きたくない」「中学校に行っても違う小学校の子に言われるかもしれない。」と毎日苦しくて仕方がなかった。当時は「笑うってどうしたら良いんだっけ?」と笑い方を忘れてしまい、もういなくなりたいと思っていた。そんな時、この「人権」という言葉を思い出し、「私も私のままで生きて良いんだ。」と思うようにした。
その時は友達や先生方に相談して対応してもらい、今ではそのからかっていた友達とも仲良く過ごせるようになった。でも、軽い気持ちで言ったその一言が人を傷つけ、人間らしく生きる権利をうばうことを知った。
そしてもう一つ、浮かんだ疑問がある。それは、「じいは幸せだったのだろうか。」ということだ。じいとは私の曾祖父で、私が生まれる少し前に亡くなった。じいは糖尿病で、左足を太ももから切断しており、四脚のつえを使って生活していた。母の話によると、じいは体を動かしたり出掛けたりすることが好きで、七十五さいまで自分で車を運転して遠くまで出掛けたり、母たちの送り迎えをしていたらしい。
そんなじいが病気で突然自由をうばわれ、どれだけ苦しく辛かっただろう。八十四さいで亡くなるまでの九年間、どんな気持ちで過ごしていたのだろうと思うと、自分の辛かった日々と重なり、胸が苦しくなった。
ある日、母と弟と三人で夕食を食べに出掛けた時のことだった。じいと同じく、四脚のつえを使った男性が店に入ろうとしていた。つえのせいで扉をうまく開けられないでいる男性の後ろで、私は何もできずにその男性が自分で開けて中に入るのをまっていた。後から来た母が私を抜かして扉を開け、男性を通してあげた。「ありがとうございます。」その男性は頭を下げて、案内された席までゆっくりと進んでいった。「かわいそうだね。」つい私の口からその言葉が出た。母は一瞬私の顔を見たが、何も言わずに自分たちの席へ向かった。母は食事中、ずっと無言だった。
帰りの車の中で、母は言った。「あの人がかわいそうかどうかは、あなたが決めることではないよ。そう思うひまがあるなら、自分にできることを考えたら?」
私ははっとした。困っている人がいたのに何もしないで待っていた私に、かわいそうだなんて言う資格があったのか。私が扉を開けるだけで、あの男性は困らずに入ることができたのに。急にじいのことを思い出し、何もしなかった自分がはずかしくなった。
家に帰り、母はじいの生きていた頃の話を教えてくれた。え死した足を切らなければ、長くは生きられない。じいはかなり抵抗したが、皆に説得され、生きることを選んだ。切断した後はリハビリを頑張り、つえを使えばゆっくりでも自分で移動できるようになった。出掛けることが好きだったじいを、母や祖父、母のおばたちなどが色々な場所へ連れていった。母は初め、じいが周りから変な目で見られないように、ボディーガードのようにしていたという。しかし、どこへ行っても母が一人でできないことを周りの人が手伝ってくれたり、「孫と一緒でいいねぇ。」とじいのことをうらやましがったりしてくれる人がいて、とがっていた心の氷が溶けたとのことだった。
きっとじいの周りは、「かわいそう」という同情より人の温かさにあふれていた。それを周りが勝手に「かわいそう」と決めつけてはいけないと思った。
じいの写真はどれも笑っているものばかりで、その周りには母を始めたくさんの人たちの笑顔があった。実際にじいは亡くなる前に、自分が死んだら泣かなくていい。花火でも上げて笑ってほしい、と言っていたそうだ。そんなじいの人生は、私が思ったような辛いものだっただろうか。
様々な人種や性別、障がい、見た目。一人一人が違う状況で生きている中で、それを個性として受け止めつつ、困っている人に自分のできることをする。それだけで、誰もが幸せに生きられるのではないか。みんなが思いやりをもつだけで、戦争すらなくなるのではないか。私も一生懸命に生きて、今度じいに会えたら聞いてみたい。「じいの人生は幸せだったよね。」
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