戰死三十一人墓とおおたまの戊辰戦争

 玉井村は戊辰戦争の折、会津へ至る裏街道を持つ村として、官軍・幕府双方から戦略的に注目されていた村である。官軍が奥州街道から会津へ攻め入るためには二つの道があり、一つは玉井から、石莚経由、二つには本宮・郡山から会津街道経由、中山峠越えの街道であるが、中山峠越えは、自然の要害に阻まれる上、かなりの犠牲を覚悟せねばならず、そこで玉井からの街道が選ばれた。
 当時、二本松領内であった玉井村と会津領の石莚村の境界近くには、東軍連合(幕府伝習二大隊、会津二小隊、二本松二小隊、仙台二小隊)が防備を固めるため、五百から千人近く出兵してきており、官軍との防衛の最大決戦場として、母成峠を選び、陣地を構築していった。
 慶応4年8月21日、東軍の31人が玉井山入村の戦争で没した。現在、その勇士の墓を亀山におき霊を弔っている。
 平成3年には玉井史談会によって、
 三十一人の名を刻んだ碑が立てられた。
おおたまの戊辰戦争

所在地

福島県安達郡大玉村玉井字亀山
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