安達太良山

 「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川・・・」と高村光太郎の詩に詠われている安達太良連峰は、那須火山帯に属し、北から鬼面山、箕輪山、鉄山、和尚山など約9キロにわたって南北に連なっている複合火山です。大玉村地内では和尚山、前ヶ岳などがある。主峰安達太良山は頂上の岩石が乳首のように盛り上がっているため一名「乳首山」とも呼ばれています。
 また、「安達太良山」の名が付いた由来にまつわる伝説も残っています。

安達太郎伝説

 奥州安達郡二本松領塩沢村田地ヶ岡の城主は安達太郎様といいました。この奥方は飯坂城主佐藤氏の娘で照姫(てるひめ)と言い、たいそう美しい人で一人息子もおり平穏な暮らしをしていました。
 その時の奥州の国司は多賀城におられたが、大変な色好みで、国内の美女を我がものにしようと非道を重ねていました。そして照姫のことを知ると飯坂城主佐藤氏に「太郎を殺して娘を私に差し出せ。」と無理難題を申しつけました。
 佐藤氏は無念の思いで従う事にし、病気と偽って二人を飯坂城へ招きよせました。照姫の付き添いの腰元がこの謀(はかりごと)を見破り二人に危急を知らせたので、太郎は大いに驚き照姫を連れて帰ろうとしましたが佐藤氏に攻撃を仕掛けられ、命からがら逃れ出ました。しかし田地ヶ岡はすでに多賀城の家来によって占領されていたので、やむを得ず太郎は鎌倉に赴きました。後に太郎は都に出て国司の悪行の数々を申し立てたので、国司は流罪の処罰を受け、太郎は再び田地ヶ岡に戻り安達の郡司となりました。
 一方照姫は太郎が佐藤氏との戦いに破れて死んだものと思い自害してしまっていました。残された太郎の子は忠臣箕輪大夫と鬼王丸に守られて安達太良山に逃れた後 猪苗代に下り、やがて元服して安達二郎と称しました。
 太郎が郡司の職をこの子二郎にゆずった後、二郎は安達太郎殿を安達太郎山明神として奉りました。これが安達太良山と言われるようになった所以(ゆえん)です。
また、箕輪大夫を追悼し箕輪権現として箕輪山に祀り、鬼王丸を鬼面骨明神として鬼面山に祀りました。

 また、安達太良山は日本に86ある活火山の一つで、そのうち気象庁による常時観測火山に指定された20の山の一つです。このため、多量の温泉が湧出し、北には野地、新野地、鷲倉、西には沼尻、中の沢、横向、東には奥岳、岳、塩沢などの温泉地を形成します。活火山であるために噴火、火山ガス、山崩れなどによって数々の災害も発生しています。また鉄山の下くろがね小屋周辺はかつて陽日(ゆい)温泉といわれ、延暦年間に征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の折に発見したと伝えられています。
 文政7年(1824年)8月15日、亥の刻過ぎ(午後10時)、鉄山東南部で山崩れが起こり、岳湯元で196人の被害者が出ました。湯元の住民、湯治客合わせて65人が死亡、けが人は131人に及びました。いわゆる「岳山崩れ」です。
 明治33年(1900年)7月17日午後6時、沼ノ平で大爆発を起こし、多数の死者を出しました。この活動は、同32年(1899年)から始まっており、沼ノ平には硫黄精錬所があったため、その建物をはじめ、従業員が被害にあいました。工員や事務員が合計83人いましたが、そのうち60人は熱灰のため即死し、重傷を負いました。逃れた人達も大方はその後絶命したので、生存者は3名に過ぎませんでした。
 このときの爆発で巨大な噴火口となった沼ノ平では、荒々しい山肌がそそり立ち現在でも泥水と有毒な火山ガスの噴出が続いており、この付近は立ち入り禁止となっています。
東に広がる勢至平・僧悟台には高山植物も多く、初夏には天然記念物の「しゃくなげ」が咲き乱れ美しいです。安達太良の自然はいつも私達の心を和ませてくれています。

村内の山の標高

山名位置標高
安達太良山玉井1,700メートル
和尚山玉井1,601メートル
前ヶ岳玉井1,345メートル
守谷山玉井  794メートル
吉丸山玉井  601メートル
高松山玉井  640メートル
大名倉山玉井  576メートル

所在地

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