木造徳溢大師坐像

大玉村有形文化財
所在地 大玉村玉井字南町188番地
 像内墨書銘により、この像が徳溢(「徳一」とも書くが、ここでは銘記に従う)大師の肖像であることがわかる。享徳四年(一四五五)に造立されたもので、「所願圓満」が祈られている。また仏法興隆人法繁昌なども願われている。旦那の「慶祐」、作者である「東寺末葉」を称する「隆嚴」については、現状では詳細は不明である。
「安達太郎山縁起」によれば、当寺は徳一により空海の彫刻した薬師如来像が眉嶽に安置され、安達太郎山相応寺と号したとある。その後、源持清により亀山里(玉井山入里)に寺は遷され、薬師如来像を移座したという。安達太良山相応寺が今の相応寺であり、二回寺を遷してはいるが、徳溢を開山とし山号寺号ももとのごとくで、「徳一木像現存」とある。すなわちこの「徳一木像」が、現存像とみなされるのである。

 像高が九五・〇㌢で、室町時代の作例では大きい部類に属する。頭部は一材で彫出し、襟の線で体躯に挿し込む。体幹部は一材で彫出し、腹部に一材をはぐ。

 頭部、体躯を各一材で彫出し、頭部を体躯に挿し込む技法もないことはないが、この像の場合頭体の調和も崩れ、頭部は体躯に対して小さく、体躯の堂々とした造形に比べ気力に欠けるところがある。頭部と両手首より先は後補のもので、おそらく江戸時代に補修されたものであろう。頭部は後世のものにかわってはいるが、体躯は当初のもので、形式化しつつ堂々とした大きさをもつ。

 この像は室町時代の相応寺の復興期において、当寺の由緒の正しさを伝えるために開山徳溢のイメージをもって造立されたものであろう。現状では、徳溢の確実な肖像の造立年代の明確な最古の遺品である。

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