【佳作】幸せになる権利 大山小学校5年 佐藤悠道
幸せになる権利
大山小学校5年 佐藤 悠道
最近、大人が子どもを虐待するニュースをよく目にする。多い時には、一カ月に三回くらい見る。親が食べ物を与えなかったり、暴力をふるったり、何日も放置したりして死なせてしまう。ニュースを見ていると、五歳より小さい子どもを虐待するケースが多いように思う。それは、力が無く抵抗できないからだろう。ぼくが五歳くらいの時には、起きたらごはんを食べて、幼稚園に行って遊んで、帰ってきたらまたごはんを食べてねる。そのくり返しだったように思う。兄弟げんかはしたかもしれないけれど暴力は受けていない。両親からしかられたことは、たくさんあったけれど、自分が悪いことをしたからだ。暴言を吐かれてもいない。
クリスマス、誕生日、七五三・・・・・・。特別な日には、ケーキがあって、お祝いをしてもらった。今でもそうだ。それは、ぼくのことを大切に思ってくれているからだと思う。「がんばったね」とか「よかったよ」という言葉をかけられるとうれしかった。きっと家族は立派な大人になってほしいと願ってぼくを育ててくれているのだと思う。
けれども虐待を受けている子どもたちは、朝、無理矢理起こされているのかもしれない。ごはんは与えられず、幼稚園にも行けず、何も自由にできない。そんな日常の中で暴言を吐かれたり、暴力をふるわれたりしているのだと思う。もし、ぼくだったら、つらいし、苦しいし、逃げ出したいと思うだろう。
なぜ、虐待をする大人は、子どもの幸せになる権利をうばってしまうのだろうか。
実は、虐待をした親は、自分も子どもの頃に虐待を受けていたことが多いのだそうだ。その子どもが大人になって結婚をして子どもができる。その時に、お酒によったり、ストレスがたまったりすると暴走してしまい、子どもに当たってしまうそうだ。
子どもは、大人からしかられる時にこう言われることがよくある。
「やっていいこと、悪いことの区別をしなさい。」
そう言うのは大人なのに、なぜ、区別ができないのか。ぼくには理解できない。
子どもを傷つけている時、傷つけられる方の気持ちになることはできないのだろうか。大人は、子どもを経験しているのに、自分の子ども、せっかく産んだ子ども、うれしかったはずなのに傷つけてしまう。子どもがほしくても授からない人もいるのに、命を粗末に扱うのはひどいと思う。
虐待をなくすためには、やったらどうなるか、やられたらどうなるかを想像することが必要だと思う。そうして、少しでも虐待が減ってくれればと思う。
ぼくは、人が産まれた時からもっている幸せになる権利をうばう「虐待」という行為が減り、子どもが安心して暮らせる世の中になってほしいと願う。