【佳作】 みんな平等

大玉中学校1年 角田 愛花
 
 私の目は、よく見えて友達の笑顔や、きれいな景色をながめることができます。
 私の耳は、よく聞こえ、家族のよろこぶ声や好きな音楽を聞くことができます。
 私の手は、よく動き、ペンを持って文字や絵を描くことができます。
 私の足は、よく動き、好きな場所にさんぽに行くことができます。そして、自転車をこいで学校に通うことができます。
 私の口は、言葉をはなし、友達と楽しくおしゃべりをすることができます。ときどき、お母さんと口げんかをすることもできます。
 私は、自由に考えて、自分のやってみたいと思うことに自由に取り組むこともできます。
 私は、健康な体と健康な心で毎日の生活をおくることができています。
 しかし、世界の中では、私のように健康な人ばかりではなく、体のどこかに不自由を考えながら生活している人々もたくさんいます。
 私が、家族と買い物に出かけた時に、車いすに乗った人を見かけることがあります。
 自分の力で車いすを動かし買い物を楽しんでいる人もいれば、介護士さんに車いすを押してもらいながら、ほしい物を指さしたり、言葉で伝えたりして買い物をしている人もいます。
 でも、そのような人たちはどのようにしてここまで来ているのか疑問に思い母に聞いてみました。すると母は、
「足が不自由な人でも、手だけを使って運転できるように作られた自動車があり、自分でそれを運転して自由に出かけられる人もいるのだよ。」と、はなしてくれました。
 私は、そのような自動車があることを知らなかったので、とてもおどろきました。それと同時に、足が不自由であっても、上手に動かせる手を使って、運転に挑戦しようとする前向きな気持ちにとても感心してしまいました。
 自分の体に不自由な部分を持っていても、挑戦しようとする気持ちは、だれにもじゃまされてはならないものなのだと思いました。
 介護士さんに手伝ってもらいながら車いすで買い物に来ている人は、自分が外に出て買い物を楽しみたいという気持ちを伝えて、その気持ちが理解されて、介護士さんの手を借りることで願いがかなっているのだなと気がつきました。
 耳の不自由な人たちは、手話を使って気持ちを伝え合い、たくさんの人たちとのコミュニケーションを楽しんでいます。
 目の不自由な人たちは、点字を使って文字を読み、本の面白さを楽しむことができます。
 体のどこかに不自由な部分を持っていても、とても上手にピアノを弾くことができたり、笑顔いっぱいでダンスをしたり、すばらしい絵を描くこともできます。自分がやりたいと思うことに挑戦する前向きな気持ちは心を健康にしてくれます。
 もし、どんなことも自分の力で自由に取り組める私でも、体のどこかに不自由な部分を持った人でも自分以外のだれかから、
「家の外に出てはいけない。」とか
「好きな音楽を聞いてはいけない。」とか
「好きな言葉を話してはいけない。」などと言われてしまったら、それぞれの人々が必ず持っている自由や自分らしさを表現できなくなってしまうと思います。
 それは、本当の自分を失うことと同じなのではないでしょうか。
 私たち人間は、一人一人それぞれの心と体いっぱいによろこびを表現したり、相手に自分の気持ちを伝え共感し合うことができます。
 自分の心が自由に表現できていれば、自分以外の人の気持ちにも気づくことができて、大切にしたいという思いやりが生まれてくるのではないでしょうか。
 そして、すべての人間ができるかぎりその人らしさをはっきして、それを受け入れながら、生きていくことが大切だと思います。
 
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