大玉中学校 2年 鈴木 敦哉
日本は、
世界で
初めて
原子爆弾が
投下された
国です。七十
年前の
八月六日に
広島、
八月九日に
長崎に
原爆が
投下されました。テレビで、
長崎の
被爆した
人達のドキュメンタリー
番組を
放送していました。
爆心地から七百メートルのところに、
長崎市立山里小学校がありました。
原爆で
破壊された
町で、千五
百人の
児童のうち、
奇跡的に三十七
人が
生き
残りました。その
子供達は、
生々しい
体験を「
原子雲の
下に
生きて」という
手記に
綴りました。
日本で
最初の
子供達による
被爆体験記です。テレビの
放送では、その
手記の
紹介と、
被爆後七十
年間の
暮らしを
振り
返っての
話をしてくれました。
被爆当時四歳だった
女性は、
現在恵の
丘長崎原爆ホームで
暮らしています。
女性は
原爆で
両親を
失い、
親戚の
家へ
預けられたそうです。しかし、「
両親と
一緒に
死んでしまえばよかったのに」などと
言われ、
暴力を
振るわれることもあったといいます。
中学卒業後は、
親戚の
家を
出て
働きました。その
後、
体調の
悪化により
仕事ができなくなってしまい、
今のホームにやってきました。
女性は「
原爆がなければ
結婚できていたかもしれない。
戦争よりも
戦後の
傷の
方が
大きかった。」と
話していました。
親戚の
家に
預けられたとき、
終戦直後でどこの
家も
貧しかったので、
親戚だとしても
迷惑だったと
思います。
理不尽な
理由で
殴られて、
逃げ
出したいと
思っても、どうすることもできなかったと
思います。
私は
母に
毎日のように
叱られています。
注意する
声がだんだんときつくなりますが、
自分がやるべきことをやらないためとわかっています。
自分が
家族に
甘えていることを
改めて
感じました。
七十
五歳の
男性は、
原爆で
足に
大やけどをし、
手の
指は
溶けて
固まってしまいました。
手の
指を
切り
離して、
使えるようになりました。
足も
手術し、
治療をして
歩けるようになりましたが、
一年間学校を
休んでしまいました。
授業中に、
何度もABCC(アメリカ
政府が
設立した
原爆傷害調査委員会)に
呼び
出され、
同級生から
変な
目で
見られていると
感じました。
裸にされ、
何枚も
写真を
撮られたそうです。
心も
深く
傷ついたと
話していました。
歩けるようになってよかったのですが、
足に
大きなケロイドが
残ってしまい、いやだったと
思います。
足を
見られるのがいやなので、
子供の
時からずっと
夏でも
長ズボンと
靴下を
履いていたそうです。
温泉に
行っても、
大浴場に
入ることはなかったはずです。ずっと
人の
目を
気にして、つらい
日々だったと
思います。
四
年前の
東日本大震災では、
福島県で
原発事故が
起きました。これまで
日本では、
原発による
大規模な
事故はなかったため、
放射線についての
知識がほとんどありませんでした。
福島県には、四十
年以上前から
原発がありましたが、
地元の
人でもわからないことは
多かったと
思います。
事故直後、
県外に
避難した
人の
中には、「
放射線が
移る」などと
差別的なことを
言われました。
同じ
国に
住んでいて、とても
残念だと
思いました。また、
放射線の
検査をして
安全な
野菜を
出荷しているのに、「
福島の
野菜は
買わないほうがいい」と
言われ、しばらくの
間風評被害に
苦しみました。
私の
心の
中に、
悲しい
記憶として
残っています。
戦争で
犠牲になった
人がたくさんいます。
終戦から七
十年が
経ち、
日本は
平和で
豊かな
国になりましたが、
世界で
唯一の
戦争被爆国です。
戦争や
原爆を
体験した
人達は
高齢になりました。
被爆して
生き
残った
人の
中には、
被爆者であることを
隠して
生活しなければならない
人もいます。
突然家族を
失った
悲しみは、
一生消えないでしょう。
子供の
時のつらい
体験を
忘れることはなく、
生きてきたと
思います。ずっと
心に
傷をもって
生きた
人達がいることを、
私達は
忘れないようにしていくことが
大切だと
思います。