【特選】 私にできること

大玉中学校1年 斎藤 育
 
 私には、体の不自由な家族がいる。それは祖父だ。私の祖父は、私が産まれた時から体が不自由だ。昔、脳の病気にかかり、左半身に後遺症が残ったらしい。私が小さかった頃は、車の運転もしていたし、歩くのも今ほど難しくはなかった。祖母と一緒に果物作りすることもできた。でも、今は、年をとったことや、病気をして入院したことなどもあり、前にも増して体が不自由になってしまった。祖父の体の不自由な部分が多くなるにつれ、いろいろなことが変化した。まず、家の中に手すりが付いた。廊下、トイレ、お風呂。実際、手すりがあることで、祖父にとって便利なんだということが、見ていて分かる。そして祖父は、体調が悪い時や急いでいる時は、車椅子を使って移動するようになった。以前は、旅行の時や病院内で車椅子を使うことはあっても、家の中では、ゆっくりでも自分の足で歩いていたので、家の中を車椅子で移動する姿を初めて見た時は、とてもショックだった。でも、見慣れてくると、車椅子があることで、祖父の生活がずいぶん楽になっていることが分かった。寝る場所も変わった。前は、畳の上に布団を敷いて寝ていたけれど、それが難しくなり、今では、ボタンで高さが調節できるベッドに寝ている。きっと私達以上に、祖父が一番いろいろな変化を受入れながら生活しているのだと思う。「病気さえしなかったら・・・。」という思いが、祖父の心の中にあるのではないだろうか。
 私は、小学生の時に、2回入院したことがある。幸い、それほどひどい病気ではなく、数日間の入院で済んだ。しかし、血液検査やいろいろな機器を使った検査は、つらかったし、こわかった。熱や体の痛みで体もだるく、食事をとることも苦しかった。そんな中で、健康であること、あたり前に生活できることの大切さを痛感したのを、今でもよく覚えている。
 誰もが健康で生活できることを、多くの人が望んでいるだろう。しかし、私の祖父のように、病気によって不自由な生活を送らなければならない人もいる。不自由さには、いろいろあることが、中学生になった私には分かる。そして、祖父のように体に不自由なところのある人を、「障害者」ということも。目が見えないこと、耳が聞こえないこと、手足が不自由なこと・・・。少なくとも、私にとって障害者は、身近な存在であり、特別なものではない。
 そんな私に、とてもショックな事件が起きた。ある障害者施設で、障害を持った19人もの人が、首などを刃物で刺されて死亡したのだ。「戦後最悪」という新聞の見出しが、この事件の凄惨さを物語っている。何よりも一番ショックだったのは、この事件の動機だ。
 「意思疎通できない人たちをナイフでさしたことに間違いない。障害者なんていなくなってしまえ。」
 事件の後、テレビのニュースや新聞で何度もこの言葉を目や耳にした。そして、その度に「なぜ?」という疑問がわいてきた。本当に、こんな理由で人を傷つけてもいいのだろうか。いや、いいはずがない。この事件で被害にあった方の家族がインタビューされているのを見た。みんな、大切な家族を失ったことへの悲しみや怒りの言葉を伝えていた。そこには、大切な家族に対する愛情の深さが感じられた。
 確かに、体の不自由な祖父と生活することは、大変なときがある。動きがゆっくりな祖父に、いらいらしてしまい、「早くしてよ。」「なんで遅いの。」とつい口に出してしまうことがある。そして、言ってしまった後で、「何であんなことを言ったんだろう。」と反省することがある。でも、決して「いなくなってしまえ。」とは思わない。それは、祖父が大切な家族だからだ。たとえ体に障害があったとしても、私にとっては大切な家族なのだ。
 私の名前は「育」と書く。病気をせず、元気にすくすくと育ってほしいという願いが込められているということを、両親から聞いた。誰だって、自分の家族が病気になったり、障害を持ったりしてほしいと思っている人はいないはずだ。誰だって家族には元気でいてほしいと思っているはずだ。私が入院した時、家族の悲しい顔を見た私には分かる。でも、世の中には、病気、そして障害を持っている人がたくさんいる。でも、その人達がそれと向き合って、たくさんの人に支えられながら生きていることを、私は祖父と暮らしていくなかで気付くことができた。
 中学生になったばかりの私にできることは、ほんの少ししかないけれど、祖父が少しでも不自由さを感じないで生活するために、なんでも取り組んでいきたいと思う。例えば、食事の時、エプロンを着けてあげること。車椅子を押してあげること。新聞をとってあげること。そして、会話をすること。祖父が障害者だからではない。大切な家族だからだ。
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