【佳作】当たり前の善し悪し   

大玉中学校1年 馬場 祐笑
 
 私は今年の春から中学生になった。もちろん小学校の生活とは違う事が沢山あった。小学校では当たり前だった事を継続していたり、やって良い事が増えたり、やって悪い事が増えたりと環境が一変した。そこで私は「当たり前」というワードを何度も見聞きするようになっていった。そして私は考えた。「当たり前」には二つの種類がある。一つは善い事、そしてもう一つは悪い事だ。当たり前は一見普通に見えて、実は違うなんてこともある。この世には当たり前や常識なんてないのだから、自然に見えるものでも全然違う場所に行ってみたら不自然に見える事だってある。
 一つの例として、日本の文化と西洋の文化の違いがある。日本の文化だと家に入る時、くつをぬぐのだが西洋の文化だとそのまま下足で家に入るのだ。私はこれについて、すこし不自然に思えた。逆に西洋でも日本のくつをぬいで入るということは、不自然見えるのだろうか。ということは、これは当たり前ではないという事になる。しかし自分が思っていることを相手がそう思うとこれは当たり前になる事だってありえる。しかし必ずしも相手がそう思っている訳ではないのだ。もしも自分がされてもあまり嫌には思わないことを相手にしてしまって、相手を不快にしてしまうこともある。そしていじめ。これは本人も、相手もいじめ自体を当たり前にしてしまっている可能性がある。だからいじめをする人がそれをやめようと決心してもなかなか改善できない事もあるのではないかと私は思う。きっとだれかれの別なく当たり前のことをしないようにと言われると不自由になってしまい、当たり前なことが言動に出てしまうだろう。悪い当たり前は直そうとも直せない事がある。その場合は自分に見えないくさりを自分でくくり付け、自分自身を痛めつけてしまうのかもしれない。きっと当たり前という事には、どこかしら闇があるのだろうと思う。
 しかし、その一方で、自分自身も周りの人々も快く思う当たり前もあるのだという事を忘れてはいけない。目上の人にはきちんとした態度と礼儀をしないといけない。そして敬語を使う。幼い時は、それができなかったかもしれないが、成長し大人になってくるにつれて、当たり前も増えてくるのだ。人を優先する、暴言を吐かない、やるものはやる。しかしそれを当たり前にすることができない人だっている。たとえそれが大人だとしても。私達の先祖には礼儀が厳しい時代があったと社会で習った。そのおかげで今の礼儀正しい日本がある。しかし時代の流れにつれて、だんだんとそれが薄れつつあるらしい。善い当たり前よりも悪い当たり前が多くなってきているせいなのかもしれない。もしそれが事実だとしたら善い当たり前を増やせばいいのだと思う。人にとって当たり前ということはさまざまだが、悪いよりも善いほうがいいはずに決まっている。前述したように日本の文化も西洋の文化もたくさん違うことがある。そして当たり前のぶつかりでけんかになることもある。しかし自分の心の中で人が快く思えること、周りや自分が快く思えることは率先してやればいい。善い当たり前というのはきっと周りもそれをやってくれるから。
 私達が思う当たり前について考えてみるときりが無くなってしまう。とても難しい話になるのだが、それを考える時間も大切にしたい。そして何よりも当たり前は二種類あるのだという事を忘れないでいきたい。当たり前は人によって違ったり、人を不快にしてしまう事だってある。しかしその裏には人を快く思わせる当たり前もある。当たり前はどこにだってある。国にも学校にも家にもルール内にも、自由にも。きっとその当たり前が未来につながっていたり、人と人との関わりにもなってくるから。私が中学校に入って変わって不自然に思えたのもきっと小学校での当たり前があったから。これから先はもっともっとたくさんのことが当たり前になったり当たり前では無くなったりするのかもしれない。しかしその中から一つ一つ考えてそれが善い当たり前なのか悪い当たり前なのか善し悪しをつけなくてはならない。その行動はきっと大切なことなのかもしれない。
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