【佳作】あの日から8年 大玉中学校2年 藤田 香芽

あの日から8年
大玉中学校2年 藤田 香芽
 
 「さようなら」。母に手をひかれて帰宅した私は、家族旅行の準備を終え、自宅で休んでいたときの事でした。突然、兄の携帯電話が鳴り、父に言われて外へ避難し終わった午後二時四十六分。大きな地震が起こりました。最も激しい揺れを記録した宮城県の栗原市で震度七、福島県では震度六強の揺れが観測されました。この地震は、明治以降に記録された国内の地震の中で最大のものだと言われています。私にとって初めて経験する地震で、当時幼稚園生だった私は、ただただ恐怖でしかありませんでした。新潟へむかう途中、川の水がにごっていたことがとても印象に残っています。また、行く予定だった水族館も地震の影響で行けなくなってしまいました。そして私は初めて津波というものをテレビで見ました。家や車が流され、その流されている家の屋根やベランダで助けを待っている人が映っていました。ヘリで救出されている所しか見ていませんが、ほとんどの方が溺死だったそうです。私はこの地震で、普段はきれいな海の裏の顔と引き波の恐ろしさ、家族や友人を突然亡くす深い悲しみを目の当たりにしました。
 そして、最悪な事に福島県は地震と津波の影響により、福島第一原子力発電所が崩壊し、放射性物質が大量に放出されてしまいました。周辺の住民は、大好きな故郷を離れて、避難しなければいけませんでした。私の住む大玉村にも仮設住宅ができ、避難してきた富岡町の方々が来ました。また、各地で放射線量の測定が始まり、小中学校などの様々な公共施設に放射線を測る機械が設置されました。大玉村も放射線量が高い場所があり、収穫したお米や野菜は必ず検査して安全だという事が分かってから食べなければいけませんでした。私たちは検査で安全だと認識してから食べていましたが、他の県の人は地震以降、福島県産のものだから危ないという偏見を持って、手にとらない人がたくさんいたそうです。さらに食べ物だけに留まらず、県外に避難した方々に対し、「菌が移る」「放射線が移る」などの言葉のいじめがあったそうです。同じ被害者として、憤りを感じました。この他にも当時は福島に対する差別が色々あったと聞きました。
 ただ、このような暗いことばかりではありません。私の通っていた幼稚園に、富岡から避難していた同級生が転校してきました。その子は幼なじみの子と一緒に来ていて、最初は緊張しているような暗い表情をしていたものの、みんな笑顔で積極的に話しかけたり、たくさん一緒に遊んだりして、転校生の子を思いやり、笑顔になってもらおうと頑張っていました。今思い返すと、小さいながらに、大きな地震を経験したからこそ、その子に元気になってもらおうと必死になっていたと思います。人の本当の優しさ、温かさに触れられました。他にも、原発事故が発生し、またいつ大きな地震が起こるかも分からないのに、他の県から救助活動をしに来てくださったり、食べ物などを支給して下さったりと、差別する方もいたけれど、親身になってよりそって下さる方々もいて、とても心が温かくなりました。また、道徳の時間にE先生が実体験と感じた事を話して下さいました。その先生は以前、浪江町の中学校で働いていて、アパートで暮らしていたそうです。そして三月十一日。突然強い揺れを感じて外へ逃げ、数分後町の放送で「バスで避難して下さい。」という内容が流れて、待っても来なかったので自分で運転して実家へ戻ったそうです。ドアをあけると「Eを迎えに行ってきます。」という置き手紙があったそうです。その後に町の方からE先生を心配する電話があったそうです。先生はこの時、家族や地域の方々の大切さ、温かさに触れたそうです。
 東日本大震災を経験して、色々嫌な思いや、悲しい思いをしました。ただ、それ以上に家族や友人への感謝の気持ちを改めて確認できたり、人の優しさや温かさにたくさん触れたりすることが出来ました。八年たった今でも避難解除されず、仮設住宅に住んでいる方がたくさんいます。私は幼かったので地震の事は詳しくは覚えていません。しかし、小学五年生の時から、必ず三月十一日にやる震災の番組を見ています。私も被害者という立場ではありますが、私以外でもっと苦しい思いをした方々がいます。八年前の地震では様々な事を経験し、学び、感じる事ができました。この地震であった出来事は、誰かではなく自分の口で伝えていけたらと思います。