【佳作】 平和を願って

大玉中学校 1年 小室 桃香
 私は昨年、「大玉村広島平和記念式典派遣事業」で広島に行かせていただきました。この機会を活かして広島に原子爆弾が落とされたことで、広島の方々の生活が変わってしまったことについて学ぼうという気持ちになりました。
 一九四五年(昭和二十年)八月六日午前八時十五分にアメリカ軍が日本の広島に対して投下した原子爆弾。この一発の兵器により当時の広島市の人口三十五万人のうち九万から十六万六千人が死亡したといわれます。原爆の爆風により破壊された建物のガラスや建材などが全身に突き刺さって重傷を負う人や人間自体が吹き飛ばされて構造物などに叩き付けられて死亡する人が数多くいたそうです。爆心地である島病院の建物も完全に吹き飛ばされ院内にいた約八十名の職員と入院患者全員が即死したそうです。
 平和記念資料館を実際に見学し、広島に投下された原子爆弾を見ました。長さ約三m、直径約0、七m、重さ約四トン。この爆弾で多くの人の命がうばわれて、広島の街がなくなってしまったのかと思うと、この爆弾を作らなければよかったのに、戦争がなかったらよかったのにと思いました。
いつものように、朝が来て、広島の人達は、こんなおそろしいことが起こるなんてだれ一人、想像もしていなかったことでしょう。
 たった一発の爆弾で、多くの人の未来をうばったのです。きっと、私と同じ中学生もいたと思います。みんな、それぞれ夢や希望をもって、毎日の生活を送っていたはずです。
 平和記念資料館には、他にも、当時の様子が分かる、実際の物や写真などが展示されていました。
 そこには、「伸ちゃんの三輪車」がありました。四十年間、庭の防空ごうに埋められていて、その後、両親が資料館に寄贈しました。当時、伸ちゃんは三歳で、三輪車に乗っている時に被爆しました。私は、その三輪車を見ながら、「幼い子どもの命をうばった原子爆弾がにくい。」と思いました。他の展示物を見ていても胸がしめつけられるような気持ちになりました。また、思わず目をそむけてしまう場面もありました。

実際に、被爆を体験した方の話を聞きました。話の中で「もうあの日は忘れられないし、思い出したくもない。」という言葉が印象に残っています。
 実際に体験した方の気持ちを考えると、とてもつらく思い出したくないと思います。でも「広島の原爆」については、たくさんの人に、語りつないでいかなければいけないと思いました。このような事は二度とおこしてほしくないと思います。
 夏休みに家族でコラッセふくしまで「平和のための戦争展」を見てきました。渡利に落とされたというもぎ爆弾が展示されていました。私は思わず、
「福島にも落とされたの。」
と言いました。担当の方が、実物大の爆弾を見ながら説明してくださいました。このもぎ爆弾は日本各地で四十九投下訓練されたようです。やがて、八月六日、九日の広島、長崎につながっていったそうです。
 来年は、戦後七十年の年だそうです。世界では、現在、イラク、アフガニスタン、ウクライナなどで戦争や民族紛争が絶えません。「どうして戦争が起きるのかな。」と思います。早く戦争が終わって世界中の人々が平和に暮らしていけるようにしてほしいです。 
 私達の住んでいる日本では、戦争は今、ありません。しかし、犯罪や事件など多くの問題が毎日のように起きています。平気で人を殺してしまう事件が多く、最近とてもよく耳にします。まるで小さな戦争のようです。
 みんな、この世に生まれてきた時には、そんなことは考えていないことでしょう。たくさんの夢や希望を持って生まれてきたにちがいありません。 
 私は、両親やいろいろな人に祝福されて生まれてきました。私は、とても幸せな時に生まれてきて良かったと思います。私は、感謝の気持ちを忘れずに、自分の目標に向かって輝いていけるように努力したいです。
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