【佳作】 人種が違っても

大玉中学校 2年 大谷 思歩
 私は東日本大震災のあと小学校五年生の三学期から中学校一年生の三学期までベトナムのホーチミンに二年間住んでいました。ベトナムにはお父さんの仕事の関係で行くことになりました。
 ベトナムに住む前の年の夏休みにお母さんと弟と三人でお父さんに会いに行きました。初めての飛行機、初めての海外。お父さんと会える楽しみとドキドキが混ざりながら、外国は安全なのだろうか。外国人として襲われたりしないだろうか。不安な気持ちがとてもありました。そして、ホーチミンの空港に到着し外に出たら、ベトナム人のギャラリーの多さに芸能人でも来るのと思うくらいの人で「何この人!?」とビックリしました。その人集りの中でお父さんを見つけました。その後、タクシーに乗ってホーチミンの街中を走っていたら、バイクが四方八方からたくさん来てヒヤヒヤして「この国に交通ルールはあるのか。」ベトナム人は当たり前のように信号を無視していました。私は「ベトナム人って自分のことしか考えていないのか。」と思いました。この時私は、ベトナム人を偏見の目で見ていたのかもしれません。
 本格的にベトナムで生活することが決まり、二〇一二年の二月から新しい生活が始まりました。始めはベトナムでの新しい生活に戸惑いもありましたが、徐々に慣れ、一人で渡れなかった道路を半年後にはバイクとバイクの間をすり抜け堂々と渡る私がいました。 
 ベトナムは、仏教国であることから、日本でいう仏壇に似たような物がお店などに置かれていました。昔はフランスの植民地だったため、建物も洋風でオシャレな雰囲気があります。人もベトナムの他に中国人、韓国人、西洋人、国籍や人種も関係無くたくさんの人が身の周りにいました。
 ベトナムで生活する中で感じたことは、始め無いと思っていた交通ルールもお年寄りや子供にはゆずり合う気持ちがあったり、日本でいう「おもてなし」の精神もありました。ベトナム人は家族と目上の人を敬うことをとても大切にする習慣があります。それは、言葉の単語でも表現されています。
 私はベトナム以外にマレーシア、カンボジア、そして、今年の夏休みに台湾へ行きました。その他にホーチミン日本人学校の行事で韓国人やベトナム人と交流しました。「ベトちゃんドクちゃん」で知られている、ドクさんに会いました。そして、ドクさんが働いている施設に行きました。そこには、ベトナム戦争でアメリカ軍が大量にまいた枯れ葉剤の影響で水頭症や皮膚がボロボロになっていたり、足や手がない子供がたくさんいました。最初は怖かったけれど、交流しているうちに打ち解けていって抱っこして遊びました。

 このようにたくさんの外国人と接する機会がありました。国籍や人種、言葉はそれぞれ違うのかもしれませんが、それぞれに家族を大切に思う気持ちや友達への思いやり、優しさに国境は無いと思いました。
 三年前の二〇一一年三月一一日、東日本大震災の時も、原発のこともあり、一部の人から福島県の野菜や米は食べたくないなどという差別的な扱いをされたことがありました。その時、私は「ちゃんと検査もしてあって、食べられる状態なのに。」とすごく悲しくなりました。でも、震災直後、日本中の消防隊員の方や自衛隊の方、そして世界各地のレスキュー隊の方々が被災地へ救助に来てくれたことにはとても感動しました。
 最近のニュースでもアメリカで白人の警察官が黒人の少年を射殺し問題になったり、毎日のようにテレビで報道されるイラクでの内戦、不幸にも亡くなってしまった人にも家族がいて、その家族の悲しみを思うと、私はすごく悲しくなります。
 こんな悲しいことが起こらないためにも世界中から争いごとや差別が無ければいいと思うけれど、簡単に無くなるものではないと思います。私はこれからも家族や友達など自分の身の周りにいる人を大切にしていきたいです。
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